呪術廻戦|日車寛見と19巻の虎杖・日車戦の考察

日記

呪術廻戦18巻で登場した弁護士・日車。19巻ではいよいよ主人公・虎杖と直接対決しました。その戦闘シーンと日車の心情を考察しました。

呪術のキャラクター、日車が気になる!

突然ですが #呪術廻戦 19巻の #日車 弁護士と術式について、私の考察、というか妄想を書きます。以下18巻と19巻のネタバレを含みますのでご了承ください。

弁護士である日車が呪術廻戦に登場したのは、法律に関わる読者としてはホクホクな展開です。18巻では被告人と接見するシーンや裁判の模様までリアルに描かれました。

虎杖・日車戦にテンションMAX

19巻ではいよいよ主人公・虎杖と日車が直接対決!両者が顔を突き合わせるまでに、日車の独白を描いた159話から飛んで163話までの時差がありますから、「いよいよ来たぞ来たぞ~~!」というワクワク感も一塩でした。

謎の多い日車の術式

しかし戦いの中で日車が発動した術式は、これまでにないタイプであり謎も多いです。

ここではその中でも私が「ん?これはどういう意味だろう??」と気になった3つのポイントについてまとめます。

謎その①:「証拠」がジャッジマンから提出された件

日車の式神であるジャッジマンは、裁判官のポジションのようですが、証拠を日車にだけ渡しているのは何故でしょうか。 刑事裁判では通常、証拠は当事者から提出されますし、片方だけに証拠を渡すというのはけっこう大胆な描写に思えます。

考察

日車は真実の探求に疲弊していた。

18巻で日車が弁護した大江は、殺人犯とされ、世間が実刑を望んでいた。日車は唯一彼の無罪を信じ弁護するも、敗訴。 実際やったのか、やってないのか、自分は間違っていたのか…。

日車は「神の証拠」を求めて、自分がそれを手にすることを望んだのではないか。神の証拠…つまり、人が生み出し収集した証拠ではなく、真実を天から見下ろしたような決定的な証拠です。

謎その②:「二審」で被疑事実が変更された理由

激しい肉弾戦のさなかに「裁判やり直し」を思いついた虎杖(カッコイィィーーー!!!)。

しかし一審が建造物侵入であるのに対して二審は殺人罪。二審で問題になったのは…言わずもがな、15巻までで描かれた『渋谷事変』です。この事件を機に作品が急展開を遂げましたが、この日車戦のタイミングで虎杖はあの時のことを問われる!なんとも印象的な展開。

この、未成年だけどパチンコ屋に入っちゃったの軽い話から入り、渋谷事変で大量殺人という重い話を持ってきた。これは裁判の展開としてどうなのでしょうか。

考察

裁判制度、ぶっこわしたい。訴因制度、いらなくね?

大江事件では検察から新証拠がないにもかかわらず逆転有罪。「初めから有罪ありきの…」というモノローグからも伝わる葛藤。

虎杖の「(大江の)やってることは検察っぽくねーか?」との感想にもある通り、日車・式神の立ち位置の曖昧さが伺えます。

通常の裁判では(訴因制度のもと)控訴審で別事件に切り替わることはないはずです。

ただ、最近でも宮崎市死体遺棄事件で死体損壊・遺棄罪などで起訴された容疑者が、殺人罪で追起訴されているように(こちらは両罪が全くの別件ではないですが)、ある人物を裁くというストーリーの中で、手続きは大きな問題ではないのでしょう。

ここの答えは二人が対面した冒頭での、日車のセリフに表れています。

「告訴も公訴も必要ない」「罪を犯した者は物理法則のように罰せられたら?」「素晴らしいことじゃないか」

謎その③:自白からの即有罪?

私の最大の疑問はこのシーンです。

「あぁ俺が殺した」と認める虎杖。「有罪!」と叫ぶ式神。(キャーーーーー!最高ワクワクするぅ!!)

でも、なぜ即・有罪なのでしょうか。芥見先生がここまで細かく裁判模様を描いているのに、憲法が定める自白法則を無視したとは考えにくい。でもゲロったら→即有罪!という展開は、自白を唯一の証拠とできない(他の証拠で補強しなければ有罪にできない)、自白法則に反する?

考察

これこそが日車の願望の最たるところだったのでは。

「私だけは目を開けていたい」(18巻)日車の切実なる叫び。当事者を置き去りに裁判が進むことへの違和感。

その一方で「他人に歩み寄る」事への途方もない無力感(19巻)。「法は無力だ。」と語る日車は死滅回遊に可能性を感じていると言いました。

そこに来て日車は虎杖と出会いました。「加害者の弱さ」「被害者の弱さ」「人は皆 弱く醜い」。これまで日車が見てきた人、世界はこういうものでした。しかし虎杖はここに当てはまらない。大量殺人を問われて、まっすぐに自身の罪を認めた虎杖。そして次のページでジャッジマンが即「有罪!」と叫ぶ。

この展開は、まさに日車の願望。「物理法則のように人を罰する」裁判を術式に反映した結果ではないでしょうか。

なんで日車はドSジャッジになっちゃったの?

ここまで考えてみて、日車はなぜこんな風に、即人を罰しちゃうのをヨシとするドSな術式をうみだしたのか…という疑問が湧きました。

疑問④:それってむしろ自己否定では?

大江裁判で日車はマトモに審理されず有罪になったことに憤っていたはず。それなのに言い訳を許さない即有罪。

人の弱さに嫌気がさして、163話にある通り、「最近いろいろと どうでもよくなっ」たのでしょうか?それって大江のことも、白でも黒でもどうでも良くなったってことでしょうか?

考察

日車が望んでいるのが、やはり「物理法則的な有罪判定」だとしたら、もう白か黒か神の目でソッコー決まればいいのにぃ~とでもいったところでしょうか。でも「物理法則」といいながら、審判しているのはジャッジマン=日車の式神=結局のとこ日車自身が判定してる。

自分が有罪か無罪が即断できたらいいのに、という願望と…でもそれはしちゃいけないこと、という弁護士や一般人としての良心が混ざり合い、あの術式がうまれたのでしょうかね。

疑問⑤:弁護士じゃなくて裁判官になれば良かったんじゃ?

ジャッジマンしたいなら、むしろ裁判官になれば良いんじゃね?というのは素直な疑問です。166話で裁判官の道を選ばなかったエピソードが明かされていますが…。戦いでは「処刑人の剣」なんちゅうアイテムも手にしてるじゃないかーい!

考察

素直に読めば、それまでは弁護士という職にやりがいを持っていたけれど、大江裁判を機に価値観が変わり、ジャッジマン発動…という流れです。

個人的に、やっぱり日車がなりたいのは裁判官じゃなくて、神。神的な何かだったと予想します。術式の中では当事者として陳述して、審判して、処刑するのを全て一人でやってしまうし、裁判のルールを決めるのも自分。まさに神なのに。いや”チートはしていない、これはフェアな戦いである”というタテマエがある。…日車の自己矛盾です。

疑問⑥:日車、〇ろしすぎじゃない?

ちなみに巷では「なんで日車、死滅回遊で100ポイントもゲットできてるの?」という点も話題になっていたようです。165話で「20人以上のプレーヤーを返り討ちにした」とありましたが、そんだけ人を殺したということだとしたら、やっぱり日車は相当ヤバイ。

考察

ここのところは個人的に引っかかりませんでした。

「返り討ち」ということは正当防衛。積極的な加害でもなければ、過剰防衛でもないよん。…と日車の中では軽く処理されているのではないかと予想します。正当防衛なら人を殺してもええんか、という倫理の問題はありますが、やっぱり生きるか死ぬかの死滅回遊です。

返り討ちにしたプレーヤーのことより、日車の心に残っているのは最初に殺害してしまった2名(裁判官・検察)。虎杖に敗れた日車は、この件について自首をほのめかしています。

まとめ

いかがだったでしょうか?

以上は法律の考察ではありません。この考察は、日車の心情の考察です。 ※細かなツッコミお断り。

それにしても呪術回線の中で法律は全くメインテーマではないのに、細かなセリフの効果で辻褄が合うように描かれている。芥見先生すごすぎません?

私の大好きなキャラ、日車は去り際まで彼らしく、なんともいえない余韻を残してくれました。虎杖との絡みをもっと見たかったーーーー!再登場待望!

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